同音異義語とは、同じ発音で異なる意味を持つ単語の事だが、日本語には大変多い。
例えば、かえる という言葉でいうと
蛙
帰る
変える
替える
買える
代える
飼える
返る
還る
孵る
と、ざっと思いつくだけでもこれだけあって、ややこしい。
文脈を読み取る事に長け、漢字という大変便利な文字を頭で当てはめて会話を繋げる日本人にとっては、ほぼ間違いなく、あの事を言ってるんだなと理解できるが、日本語を習う外国人にとっては至難の技となるのも頷ける。
何故、このような事を書くのかというと、昨日、倅のクラスメートのアラブ人の1人が、学童か何処かで聞いてきたのか、そのような事を倅に話してきたという。
同音異義語は、日本語ほどではないにせよ、ドイツ語にも存在する。
実は上記のクラスメートも含めて、それで誤解を受け、大きな集団苛め問題に発展しそうになった事があった。
ある日、倅が「Weise(ヴァイセ)」という言葉を用いて、イエス・キリストを賞賛した。
この名詞は「賢い、物知り」という意味になるのだが、その言葉を倅以外のクラスメートは誰も知らなかった。
彼等が知っていた同音の言葉は孤児という意味の「Waise(ヴァイセ)」のみで、そこから「イエス・キリストは孤児だ」と誤解し、更に「倅君はイエス・キリストを愚弄した」にまでに発展し、そして集団苛めを及ぼされそうになったのだ。
倅が誤解を解こうと必死に話しても、全く聞く耳を持とうとしなかった同級生達。
普通なら前後の文脈を捉えて、イエスは物知りだと言ってるのかなとなるだろうが、この単語の同音異義語の存在を知らないばかりか、恐らくは、知りたくもないのだろう。
というか、こういう人達は、思い込みが激しく読解力や想像力が非常に乏しいのだろうと思う。
だから、倅の言葉に耳を貸そうとしなかった。
知らない事が罪なのではない。
知ろうとしない事が罪なのだ。
とはソクラテスの言葉。本当にそうだと思う。
集団苛めに発展しそうになった時、倅はスクールカウンセラーの元に彼等と一緒に訪れた。
その数日前に別件で私がスクールカウンセラーと話をしていて、本件にも少し触れていたから、彼女も理解しやすかったのかもしれない。
そこでキチンと誤解が解け、和解したらしいが、未だに誤解をしたままの男子もいるので、正直言って大丈夫なんだろうかと心配になる。
どの国の言葉にも、同音異義語は多かれ少なかれあると思う。
同音異義語を使って言葉遊びをしたり、知らなかった言い回しや単語を学ぶことで知識も広がっていく。
また母国語と外国語での同音意義語を見つけた時の驚きは、その国がもっと身近に感じられるのではないか。
そんな風に考えるのは、同音異義語が多い言語を持つ日本人だからだろうか。
倅は9月から、殆どのクラスメートと違う進路を辿るようになる。
そこでは別の苦労が待っているだろうが、少なくとも、この手の誤解で苛めに発展するような事は無かったら良いなと思う。
◆◆◆おまけ◆◆◆
他所様の庭のアナベルは、もう大きくて白く咲き誇っているが、うちもやっとここまで大きくなった。
アナベルのお隣は、やたら自己主張の激しい方々w
いつの間にか生えていた。
こちらはギボウシ(ホスタ)。知らない間に花が咲いていた。